B面な自分の愛し方

「量産型女子」になれなかった私

 

子どもの頃から、自分の容姿にコンプレックスがあった。

幼稚園の頃のお遊戯会ではすでに「可愛くない私は、可愛い役をやるべきではない」と考えて、全身を覆う様な衣装の役を自ら志願するような子どもだった。

 

コンプレックスが強まったのは、小学校6年生の卒業写真のグループ単位の撮影時。

対して仲の良くなかったグループだったし、特別に虐められてたわけではなかったのだけれども、突然、「なんか、歩くたび、地面が揺れている(笑)」と一人の男子が言い始めた。

そこにいた5人のうち、明らかに太っていたのは、私。他の子どもが同調して笑う。

 

私は、悔しくなって、その場から離れた。そして、一人、隅で泣いた。

言われたことにショックを受けたというよりむしろ、それを否定できなかった自分自身が悔しくて泣いたのだった。何より、今までそんなことを言われたことはなかったので、「太っている」と言われてしまったことに、ひどくショックを受けたのだった。

 

私は、「可愛くもない」「太っている」。

恋愛もおしゃれも必要がない、そんなことを思うようになっていった。

 

だから、懸命に自らを飾り、可愛くあろうとする女の子たちが「量産型女子」と揶揄されていたことに憤りも感じていたし、可愛くあろうとする努力ができる彼女たちを見て、ある種のうらやましさを感じていた。

 

私は、「量産型女子」になれなかった女だから。

 

 

きっかけは、突然にやってくる。

 

25歳の6月。

体型を気にしなくなった私は、どんどん肥えていった。

仕事のストレスを、「食べること」で解消していた。 

150㎝60キロまで太っていた。痩せることは諦めていたし、食べることが一番の幸せなので、たいして気にもしなかった。

 

けれども、転機は突然やってくる。

通勤帰り、そこそこに混んでいる電車内、ワンピースにローヒールで立っていると、

「席変わりましょうか???」と声をかけられた。

 

調子が悪いように見えたのかもしれないが(たしかに疲れてはいた。)が、短期間のうちに2回も席を譲られたのだった。

感じのよい女子高生と、爽やかな私好みの若いスーツを着た男性に。

 その行為に好意を感じた一方で、妊娠どころか、恋愛したことのない自分がそう見られたことが、本当にショックだった。

 

痩せたいとは思っていたけれど、おいしいものを我慢してまで痩せるメリットを感じていなかった私でも、流石に、これは堪えた。

 

「一度、本気でダイエットしてみよう」。そう決意したのだった。

 

まず、第一にレコーディング。食べたものは、Twitterに専用のアカウントを作成してその都度記録、体重はTwitterに連携でき、簡易的にグラフ化して記録できるアプリを始めた。

次に食事制限。意識しなければ、グミを1袋15分で平らげる女なので、仕事中のお菓子は買わないようにした。どうしても欲しい場合は、カロリーカットされているチョコかドライフルーツを購入するようにした。これも今も意識している。食べ物は基本的に夕食の米を抜いた。これは今も基本的に外食と刺身の時しかお米は接種していない。幸いにも(?!)「食べること」に付随する「料理を作ること」も好きだったので、ローカロリーレシピを見つけてくるのも楽しくて、これも続いた。

運動については、「水泳」が最も効果的、という記事を見て、プールに赴いた。最も、カナズチなので、市営の流れるプールをひたすらウォーキングした。効果があったのかはわからないけれど、無駄食いしてしまう時間をそちらに費やしたのは、良かったのかもしれない。今はたまにジムに行って体を動かす程度なので、運動もしなくてはとは思っている。

 

そこで、54キロまでは痩せた。

 

今まで博多ラーメン3杯に餃子を貪り食っていた私が、間食を辞めたのだから当然と言えば、当然かもしれない。

 

順調に体重が落ちていくなかで、ふと、一度恋愛してみようと思った。

友人が結婚したり、付き合いが長くなっていくのを見ていて、一度くらい「恋愛」のために動いてみるのも良いのではないのではと思ったのだ。

  

恋愛とは、評価し、評価される行為で、今の自分を客観的に評価されるような場に行き、他者の視点が入ってくる場に行くことは、痩せることに効果的だと思ったから。

「恋のために痩せる」のではなく「痩せるために恋しよう」と思ったのだ。

 違うと思ったら、「恋愛」への努力を辞めればいい、そんな気軽な気持ちで、「恋活」を始めたのだった。

 

 

どうせやるなら、楽しみたい

 

恋愛しようと思ったは良いものの、これまでしてこなかったわけですから、そうそう出会いがあるわけはない。

 

友達に頼むのは、私が合コンに来たら、その友達の株を下げるのと、男性側の落胆を想像したら行けない。あと後々の人間関係がめんどくさい、という本音もある。

 

 というわけでどうしようかなと思っていたところに、行きたいなと思っていた、読書会を主催しているところが、読書合コンをするとあって、これだ‼︎ と思って申し込み。

4対4の合コンだったのだけれども、

①自分の好きな本を1冊紹介

②各相手と15分程度話す

③第2希望まで書いて(書かなくても可)マッチング

という手順だった。

好きな本を紹介するところは、質問も可能で、わりと和気藹々としていた。私は純粋に全ての本に興味があったので、男女問わず1問は何か聞こうと思って、1冊以外は全て質問したはず……。

そして、各相手と話す時間。そこまで好みでない人には軽快に話せた。非常に感じがよくて、自分が1番読みたいと思った本をプレゼンしてくれた男性には、上手く話せなくて、いいなと思った人には良いところ見せたいんだ、と思う自分がいることに驚いた。

 

我ながら凄くメンドくさい人間だなと思うのだけれども、

第1希望に、私のことを絶対書かないだろう人

第2希望に、私が1番いいなと思った人

を書いた。

 

マッチングしなくても、第2希望だったし……と言い訳するための逃げ道を用意しておいた。 そしたら、意外なことにマッチング。

この好意が『恋』なのかは分からないけれども、たとえこの好意が恋でなくても、友達として仲良くしたいな、と思える人だった。

他にも比較対象が欲しいと思い、20代限定街コンや大企業街コン、ローストビーフ街コンなどに申し込んだりしたが(これは人数が集まらず、開催せず。ローストビーフ食べたかった。)、彼以上の好みの人がいなかった。

ただ、いろんな業種の色々な人に会えたのは、中々面白かった。「水族館」「謎解きゲーム」に参加しながらの街コンなど、コスパのよい街コンに参加してみても良かったかなとはいまだに思っているけれど。

街コンで出会った人は、風邪ひいているのに、ホテルに誘ってくるような軽薄な人間が多かったので、やはりデブでブスな私は、その程度にみられているのだなと凹みつつ、彼の誠実さが際立ってみえた。

 

それから、回数を重ねるごとに好意は増していき、運よく、その人と付き合うことになった。1年半に経った今でも、大好きだし、何なら、好意は増していく。私にも、こんなこと思う日がくるんだなと驚いている。

彼に会って、自分のことが、前より好きになった。「彼を好きになっていくなかで、自分のことも好きになっていった」のが、私の中では大きな発見だった。

 

 

 

自分を好きになるにはだれかからの「肯定」も必要なのかもしれない

 

私は、「可愛い」と彼が言ってくれるたびに、「可愛くないから」と全力で否定していた。可愛い子はあまたいるし、努力したところで、何の意味のないと思っていた。

女の子の相対評価の中で自分を見ていた。

けれど、彼は、「そういうときはありがとうで良いの(笑)」と何度も言った。

そう言われているうちに、「可愛い」といってもらいたいという気持ちが芽生えてきた。

「着心地」を最重要視し、苦手分野だったファッションも勉強しだしたら、同じだと思っていた服装がまったく異なる印象を持つことが分かってきた。元来オタク気質な私は研究するのが楽しくなってきた。

研究していくと実践したくなる。色々と楽しんでいると、彼氏以外にも「可愛くなったね」と声をかけてもらうことが多くなった。

昔なら、「前が酷かったからね!!!」と厭味ったらしくいってしまいそうだったが、「ありがとう」と純粋な言葉で言うことができている。

自分を磨くことの楽しみを、27歳にして、ようやく発見した。

 

「恋してきれいになった」、そんなことも言われたけれど、そうでなくて、「きれいになりたいから、恋した」のだ。

そして、そんな自分を好きになりつつある。

そういう恋愛の仕方もいいかなと思っている。

 

今後、どうなるかはわからないけど、「自分を磨くことの楽しさ」を見つけてしまったので、自分なりに楽しんでいければと思う。

磨いたって綺麗なダイヤモンドになれなくたって、綺麗な石くらいにはなれるのだから。A面じゃなくたって、いい。B面のスルメ曲には、隠れた名曲が多いじゃないか。

 

少しでも自分のことを好きでいるために、試行錯誤しながら、今日も私は私の服をまとう。